〜Story10〜
With Wind
都会の中では風を感じることは出来ない。
ビルの中に吹きすさぶ風は、人工的に造形された直線の世界の象徴。
排気ガスと雑踏の中で生まれる熱気、無機的な香りのない空間が大都会を巻き込んでいる。
彼はそんな都会の雑踏を抜け出し初夏の高原にやってきた。もちろん愛車のスパイダーと共に。
「スパイダー」とは「蜘蛛」の意味。オープンカーの幌を開けた姿が蜘蛛に似ているから・・・。
小粋なイタリア人は「カブリオ」「オープン」といった表現を好まない。
クルマたちのネーミングもまた、何かに例えられた芸術の世界なのだ。
なぜならクルマそのものが彼らにとって芸術であり、その芸術品はどんなシチュエーションであっても絵にならなければならない。
都会であっても、高原であっても、海岸であっても・・・
初夏の高原には森林からのそよ風が漂い、屋根を開けたスパイダーを駆る彼には、自然のそよ風が直接初夏の到来を告げていた。
「スパイダーには風を受けている姿が一番よく似合う」
彼はそう思いながらステアリングを操作し、彼とスパイダーは一体となって雲ひとつない空のなかで疾走していた。
ただ走ること。それが彼の今日の目的だった。
自分の駆るスパイダーの姿を心の中で想像し、景色と一体、風と一体となったこの自然と芸術の調合を彼なりに演出したいのだ。
長い冬を経て、スパイダーがスパイダーらしく走る姿を演出するために彼は走り続けた。
それはまるで冬眠から解き放たれたように。啓蟄のように。
20kmほどの高原道路を何度も往復した彼は、熱くなった自分の気持ちとエンジンルームを冷やすためにスパイダーを止めた。
タバコに火をつけた彼の正面から、初夏のそよ風がクールダウンさせるかのように漂い、タバコの煙を後方へ運んでいった。
ふと、空を見上げた時、どこからか蝉の鳴き声が漂ってきた。
彼とスパイダーの夏が始まった。
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