Bloody's Tea Room
Team SPIRITS Web Master 「Bloody]の趣味の世界へようこそ

2018/02/18 15:32更新 

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〜Story15〜

Midnight Express

 

私が会社をリタイヤして1年半になる。定年退職した後に人は一気に老けるというが、私は逆に若返った気持ちで毎日を楽しんでいた。それは2年の間に日本全国を鉄道で旅するという目的を持っていたからだ。もちろんそれ相応にお金はかかる。しかし在職中にはなかなか得ることが出来なかった「時間」と「自由」がある。会社勤めを39年間もやってきたのだから、2年間ぐらい自分のやりたいことを思いっきりやってみたっていいじゃないか。そしてあくせくと航空機などを使って移動しなくてもいいじゃないか。
退職後、北から順番に全都道府県を巡り始めた私の旅は、1年半を経過して九州を残すのみとなった。九州旅行の移動手段に私は30年ぶりに寝台特急を利用してみようと思った。時間はたっぷりあるし旅情を楽しむには最高だ。
私が会社に入社した頃、航空機はまだ高嶺の花、新幹線はまだ新大阪までしか開通していなかった。長距離の出張には必ず夜行列車を利用したものだ。夕方まで仕事をして資料を作り上げ、それを持って夕方の夜行列車に飛び乗る。翌朝には取引先を訪問して1日打ち合わせをこなし、そのまま帰りの夜行列車に飛び乗る。もちろんその頃の寝台特急は値段も高く、常に満員。サラリーマンの出張移動は夜行急行列車の座席車と相場が決まっていたものだ。硬い向かい合わせ座席に4人で腰掛けて10時間以上の移動をする。良く眠れたものだと今でも思う。それだけ高度経済成長期はエネルギッシュで若さがあふれていたと今も思う。
ところが昨今は新幹線や航空機の発達により国内では昼間移動が一般的になり、夜行列車は衰退の一途をたどっている。朝一番の新幹線に飛び乗れば昼前には博多に到着できる時代、夜行列車で寝る間を惜しんで移動するなどというのは現代にはそぐわないのかもしれない。

30年ぶりに間近で見る寝台特急はお世辞にも美しいとは言えなかった。ブルーの車体はところどころペンキが剥れ、車内にはほとんど乗客の姿はない。かつての寝台特急は1ヶ月前の寝台券発売と同時に売り切れ、ホームも車内も人があふれかえるほどの活況を呈していた。
「まるで老いてゆく私のようだな」
ちょっと物悲しいような、侘しいような、切ないような・・・・。
4人が居住できるB寝台も私のブロックには他の乗客はなく、話す相手もいない。ただ鉄路の「カタンコトン」というジョイント音だけが鳴り響いていた。かつて大勢の旅人が利用した食堂車も既になく、あっという間に売切れてしまう駅弁を販売する車内販売もない。出発後の長い車内放送と車掌の「寝台特別急行」という言葉だけが歴史と栄光を今に伝えている。
車内放送によるとこの列車にはロビーカーという車両が連結されているらしい。かつての食堂車の代わりとして昭和末期に連結開始された列車内の社交場。なんとなく他の乗客と話をしたくなった私はロビーカーに行ってみることとした。東京駅で買い込んで来たビールとおつまみを片手に、ブラブラとロビーカーへ向かった。

ロビーカーには入ってみた私は唖然とした。乗客はたったの3人。ソファの表地は擦り切れ、クッションはバネがへたっているらしくミシミシと音を立てている。社交場とは程遠い・・・。
乗客のうち、2人で話し込んでいる会社員風の二人は、どうやら出張族らしい。私はちょっと驚いた。
「今でも出張に寝台特急を利用する会社もあるんだな」
話に耳を傾けていると、山口県の下松という地名が飛び込んできた。確かに下関付近に早朝到着して仕事をするのなら、新幹線で行くよりも効率が良さそうだ。いくら新幹線が速いと言っても、都市間の穴のような場所に行くにはやはり需要はあるのだ。私はなんとなくホッとした気持ちになった。まだまだかつての出張文化は残っている。
もう一人の乗客は私よりもちょっと年上に見える初老の男性だった。黒いシャツに白っぽいネクタイを締めているが。どう見てもサラリーマンには見えない。彼はソファに身をうずめて、少しづつ缶ビールを口に運んでいた。
「ご一緒してもよろしいですか?」
私は彼のはす向かいに腰掛け、声をかけた。
「ああ。どうぞ。」
彼は物憂げな表情をしながらも私に応じた。
「ご旅行ですか?」
「いや、帰るんですわ。」
「帰る?九州に住んでおられるのですか?」
「いや。今まで東京に住んでおったのですが、故郷に帰ることにしたとです。」
九州弁が心地よかった。
「失礼ですがお仕事は?」
「先日まで東京の会社で働いとりました。定年になった後も嘱託で残っておったのですが、先日嘱託期限も終わったとです。」
「そうですか。」
「それにしても寂しいもんですたい。故郷から出てきたときにも憧れの寝台特急でやってきたとです。それこそ大枚はたいて満員の列車に乗って、博多駅でみんなに見送られて。40年間以上働いて、帰るときも寝台特急でと思って乗ったとですが、こげん寂しか列車になっとるとは思わんかった。」
「そうですね。食堂車もなく、お客さんもほとんどいない。」
「なんか自分の老いてゆくのと同じように列車も老いてしまったのかと思いましたとです。」
「お互いに一つの時代を築き、それが終わったということなんでしょうな。我々の世代とこの寝台特急と。」
「だから故郷に帰ってから本を書くことにしたとです。この時代の発展とそれを支えた我々のことを。後世に語り継がねばならない気がしましての。」
「よく分かりますよ、その気持ち。我々の生きた証を残したいですからね。」
「この列車も来年には廃止になるそうですたい。じゃけん、我々はまだ生きとる。物は朽ち果てることがあっても記録は残り続けなければならんとです。」

彼の話を聞きながら私は自分の人生を反芻していた。生きた証・・・・。自分にはまだまだやることがありそうだ。2年間ただ旅行を続けるのではなく、それを記録に残すこと。「今」という日本をきちんと後世に伝えること。海外旅行がメジャーになって、若者たちはすぐに海外に出かけてしまう昨今、
「日本全国にはまだまだこんなに見るべきところと歴史があるぞ。」
と私は伝えてゆくべきなのではないだろうか?
ジョイント音が鳴るたびに、記憶が刻まれてゆくような思いを抱きながら、私は彼の言葉に耳を傾けた。

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