Bloody's Tea Room Team SPIRITS Web Master 「Bloody]の趣味の世界へようこそ 2018/02/18 15:32更新
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〜Story29〜
To the Summer
江ノ島の夏は早い。 桜も咲かぬ3月頃から陽射しは徐々に強まり、若者たちは海へと向かう。 サーフボード、ウエットスーツ、ステーションワゴン・・・全てが夏に向けて動き出す。 海岸沿いの国道は一足早い夏の雰囲気を楽しむ行楽客で賑わい、その一帯だけが織り成す独特の香りで満ちている。 潮風、オイル、コパトーン 彼は助手席の彼女にふと目を向けた。 彼女は物憂げな表情で遠くに霞む江ノ島を見つめている。 「この渋滞はいつものことだからね」 彼はちょっと弁明するように彼女に言った。 「え?私、退屈しているように見えるかしら?」 彼女は視線を江ノ島に向けたまま答えた。 「いや、誰だってこんな渋滞は退屈してしまうものだから」 彼女はゆっくりと彼の方に向き直った。 「江ノ島に行くだけならもっと早くにたどり着ける道があるはず。あえてこの道を走っているのは貴方が何かを見たかったのではないの?」 彼は苦笑した 「お見通しだな。江ノ島に行くならこの道と決めている。だんだんと近づいて来る江ノ島をじっくり見られるだろ?」 「しかも江ノ島に行く時にはこの渋滞を通るという儀式があるわけね」 [そう、渋滞の楽しみ方さ!2月だというのにこの道を走っているとそうは感じない。一足先に夏を感じることが出来るんだ」 「なぜ夏を感じることが出来るのかしらね?」 「人それぞれに捉え方は違うと思うけど、海と砂浜と太陽と空気が妙に調和していると思うんだ」 彼女はふと視線を江ノ島に戻した。 「私はね、あそこに江ノ島がなければこういう気分にはならないと思うの。ただの海岸線だけならどこの海岸でも夏を感じることができるはず。でも、ここには島がある。島というのは孤立していながら雄大で、景色としてはなくてはならない存在だと思う。風と香りと陽射しを五感で捉える中に、絶対に必要なのが島のビジュアル的な景観なのよ] [そうか、確かに考えたことなかったけど、江ノ島がないとただの海岸になってしまうような気がする] 「だからさっきからじっと江ノ島の存在感を楽しんでいたのよ。ちっとも退屈ではないわ」 「君はフォトグラファーとしてこの景観をどう撮るのかな?] 「逆に聞くけど、アナウンサーとして貴方はこの景観をどう表現するの?] 「言葉はない。強いてあげれば『いい景色』としか言えないな」 「そこが現実主義の貴方と理想主義の私の違いね。私はこの景観を写真に撮ることはしない。まぶたの裏の印画紙に焼き付けるだけ。焼き付けた画像は一生のものだわ] [芸術家には太刀打ちできないな。でも、いまの僕はアナウンサーではない。言葉で表現することは出来ると思うよ] [なぜ?] [君と一緒だからさ] 彼女は再び彼に向き直った。 「じゃ、表現してみて」 彼はちょっと頭に手をやり、下を向いた 「困ったな。今、頭に浮かんだ言葉を言ってしまうと負けてしまう。手で押さえておかねば」 彼女は笑いながらこう言った。 「許してあげないわよ。言うまでは!」 彼は再びステアリングを握り、前方を見つめながらこう言った。 「江ノ島を見つめる君を毎年見たい。僕から見た景色の一部としてなくてはならない。絶対に」 「・・・・」 今まで冷静だった彼女の顔がくしゃくしゃになった。 「おいおい、夏じゃなくて梅雨になるなよ」 彼はおどけて彼女を覗き込んだ。 「意地悪ね、夏の前には必ず梅雨があるのよ。いいじゃない、早く梅雨が去って夏を迎えれば」 「そうだよ、僕たちの夏はこれから始まるんだ。そして君には2度と梅雨は来ない。なぜならずっと大事に出来るから」 遠かった江ノ島が眼前に近づき、車の流れも心なしかスムーズになってきた。 来年も二人はここに来るだろう。彼らの盛夏を携えて。
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