Bloody's Tea Room
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2021/05/30 16:25更新 

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〜「ブラッディー」の震災11年目の被災地を巡る旅〜

東日本大震災が発生してから速くも11年が経過した。震災発生後1年後、2年後、4年後、5年後、6年後と計画的に被災地のその後を確認していた「ブラッディー」。実は10年目の2021年に被災地を巡ろうと計画していたのだが、私の母が2021年3月10日に他界。現地訪問は5年前を最後に果たせずにいた。
そして2022年。1年越しの計画を実行することとした。ルートは「グランブルー」さんと2013年夏に巡ったルート。ちょうど3月19日〜21日が三連休と言うことで、ここに照準を当てて計画していた。
しかし訪問予定3日前の3月16日(水)深夜に、東北地区を再び震度6強の地震が襲った。新幹線の脱線事故という衝撃的な映像や、めちゃめちゃに壊れたビルのガラスなどを見るにあたり、「これで現地訪問して良いものか?」と思った。
その背中を押したのが予約していた石巻のホテルからの電話。駐車場確保有無の確認電話だったのだが、「現地は大丈夫ですからどうぞ計画通りお越しください」とのこと。
ならば、今こそ現地に行ってたくさんお金を使うべきであろう!
ということで2泊3日震災被災地を巡る弾丸ツアーを決行したのであった。


3月19日(土)川越9:00出発〜圏央道〜 常磐道〜高萩〜六角堂〜いわき「らら・ミュウ」〜塩屋崎〜国道6号で帰宅困難地域を確認〜相馬で3日前の地震跡を確認〜閖上〜石巻に宿泊

本当は明け方出発したかったのだが、町内会の行事があったので出発は9時。まあこの日は最終目的地が石巻なので無理のない計画。
ただし、地震の影響で前々日まで東北道は不通でしかも開通後も大雪でチェーン規制。常磐道は前日まで通行止めと言う状況。
むしろ出発時間が遅かったのはラッキーで、常磐道も東北道もこの日の朝には全通し、なおかつチェーン規制も午前中一杯で終了!
ということで燃費を生かして今回は支援戦闘機CR-Zで出発!圏央道川島から高速に乗り、つくばJCTで常磐道に乗り換えて高萩までは高速で一気に走りきる。最初の目的地である六角堂へは北茨城インターで下りるのが良いのだが、

高萩以北の国道6号線は有名な勿来の関付近まで太平洋岸を走るので、このような素晴らしい景色が見られるのだ。
北茨城市にある六角堂には12時頃に到着。ここは10年前にツーリングで訪れた場所。明治時代の思想家岡倉天心の住居と研究施設があったところにある。
震災時に津波で海岸沿いの六角堂という茶室が流出。10年前に訪問した際には台座しか残っていなかった。

しかし、可能な限り海中から残骸を集めて再建したのがこの新しい六角堂!
受付で聞いたところ、結局ほとんどバラバラだったので元の資材はあまり役に立たなかったのだそうな。しかし、震災前に耐震補強工事の予定があって図面をちょうど起こしていたとのことで、それが再建の際に役に立ったという。すごいよね。

ちなみに六角堂から海を眺めるとこんな感じ。いつもはこんなに綺麗な景色なのだ。なお、六角堂よりもちょっと高台には岡倉天心の住居跡があるが、ここも浸水被害を受けて修繕したのだそう。海岸からの高さは6mくらいはあるぞ!

ということで無事に再建された六角堂を見た後は腹ごしらえ。小名浜にある「らら・ミュウ」という商業施設へ行ってみる。
左は小名浜港にある競技場
ここは10年前に訪問した際にがれき置き場になっていて、堆く積まれた津波被害のがれきが津波にものすごさを物語っていた。現在は綺麗に片付けられて、本来のスポーツ施設として使われていた。
これが「らら・ミュウ」。水族館アクアマリンふくしまの対岸にある
中は大規模な市場になっていて新鮮な魚が安く手に入る。食堂も多数併設していて目移りしてしまうほど。ここには10年前と6年前に来たのだが、いつも活気があって良い。

昼食を食べるところとして選んだのは寿司「正」。注文したのはマグロ丼1450円。この値段でカニ汁もついているし、温泉卵がのっかっているのはここだけ。しかもご飯が寿司飯というのも良い!本当は生ウニと貝ウニ丼も良かったのだが、季節的に貝ウニが入ってこないらしい。

腹一杯になったところでさらに北上する。次に向かったのはいわきの北にある塩屋崎。ここは10年前に訪問し、ホテル塩屋崎にも宿泊した。

当時はホテル塩屋崎の周囲に住居は全くなく、津波で持って行かれてしまっていた。あたりに住居はポツポツと建ち始めているが、ご覧のような空き地が目立つ。
右の画像の左側に見えるのが新しく作られた防潮堤で、この防潮堤の外側に新しい道が出来ていた。
その道を走ってみたが実に気持ちいい。堤防の上はサイクリングロードになっている。
でも、震災前のような活気は当分望めないのかもしれない。
この道をまっすぐ行くと到着するのが

塩屋埼灯台!美空ひばりさんの「みだれ髪」「塩屋崎」が有名なので、その碑も建てられている。ちなみに10年前は灯台への道が崩落していて行けなかったが、今は観光客も入ることが出来る。

この駐車場の目の前にあるのが山六観光というお店。以前はお土産屋さんが1階、食堂が2階だったのだが、立て直されて土産物はあまり扱っていない状態だった。
ここは震災当時1Fが完全に浸水して、従業員もお客さんも2Fに避難して無事だったそうな。そんな記録が前の建物には飾られていたのだが、今の新店舗には何も掲示されていなかった。
右はこの山六観光横の道。新道が開通して旧道が閉鎖されているのがわかる。
ちなみに今回の旅に駆り出したCR-Zは2010年式。つまり震災前の車なのだ。よって搭載されているナビの地図は震災復興前のものなので、東北を巡るとその道路の変化もよくわかる。

ここからはひたすら一般道を相馬まで北上することとする。塩屋崎の前の海岸道路は直進して行くといずれ国道6号線に合流する。

海岸沿いや防風林の間を抜ける気持ちの良い道なのだが、その両側には右の画像のように廃墟となった建物も多数ある。津波で破壊されたり、震災後持ち主が疎開してしまってそのままというものもあるようだ。10年経過しても元には戻らない。
国道6号線に合流するのは富岡。この富岡から南相馬までの間は6年前に通過しているが、その際はほとんどが福島第1原発事故による帰宅困難区域だった。
11年経過した今は帰宅困難区域も縮小され、常磐線も開通した。しかし

福島第1原発のある双葉町では依然として帰宅困難地域が設定されており、道の両側にはバリケードや検問所がある。

そして道の両側の店舗などは11年前のまま時が止まって朽ち果てている。6年前にも感じたのだが、まるで世紀末的映画のゴーストタウンのようだ。コンビニや牛丼屋さんが当時の看板のまま残っているのはとても正視できない。

浪江町に入ると帰宅困難地域はなくなり、いきなり活気が出てくる。本当にまるで世界が変わったかのように新しい建物が立ち並ぶ。その代わり、右のような津波被害の看板が目立つようになる。
そう、ここから北は津波被害、ここから南は原発事故被害と福島県はとてつもない被害を被ったのだ。
そして浪江町を抜けると南相馬市に入るが、

急に道路工事が多くなる。そう、三日前に震度6強を観測した地震で最も被害を受けた地域なのだ。ブルーシートが目立ち、瓦が落ちたりガラスがなかったりする建物も多い。
ちなみにこの日も一部地域では断水が続いていたそうだ。なお、お店などは平常営業できているようで、建物被害以外は大きな生活影響がなかったのは不幸中の幸いだ。
常磐線の線路を海側から移設して復旧したのもこの付近。
真新しい高架の上に真新しい駅が出来ている。

今回の地震影響の状況を確認できたところで相馬市まで走りきる。ここから閖上のある名取市までは常磐道で時間短縮してしまうこととした。

常磐道からは蔵王がくっきり!常磐道もこの付近になると車はほとんどいない。そして閖上には17時頃到着する。

ここは9年前に訪問した。当時はこの日和山だけが残っていて、周囲は完全な原っぱだった。当時、ヘリコプターから捉えた津波が街をのみ込んで行く映像には衝撃を受けた。名取市の広範囲を飲み込んだ津波で、閖上地区は壊滅的な被害を受け、街そのものがなくなってしまった。

日和山の隣には祈念公園が出来ていて、その一角には市場が併設されている。しかしそれ以外はほとんど何もない状況は変わらない。
さすがに9年前には放置されていた住居跡などは撤去されていた。

12年前の地図にある閖上小中学校の場所にはコンビニ。全く跡形もない。唯一救いなのはこのコンビニの向かいに大規模商業施設が出来ていて賑わっており、この周囲には新興住宅地が出来ていたことか。

ということでこの日に巡る予定だったところはすべて回った。時刻は17時半。この日の宿のある石巻まで一気に走ってしまうこととする。

閖上大橋を渡って名取平野を東に進むが、道の両側には何もない。塩竃の街を抜けると松島沿岸を走るが、日の入りを過ぎてしまったので島影だけ見ることが出来た。まあ今回は観光目的ではないし、松島へは過去に7回は行っているので通過。
目的地の石巻に到着したのは19時。この日宿泊するホテルは

コンビニホテルAyersRock。ここ、チェックインして部屋に向かうと・・・ん?普通のマンション?

中に入ってみると・・・うん、マンションに違いない!東北にはこの手のホテルが多いのだ。元々ワンルームマンションだったところが、ホテルに再利用されているというケース。鍵を受け取ってからは翌日チェックアウトするまで出入り自由だし、風呂とトイレが別だし、部屋は広いし気楽だわ。
さて、腹も減ってきたので夕食へ向かう。実は9年前に「グランブルー」さんと石巻に宿泊しており、その際に飲みに行った
「六文銭」で食べると決めていたのだ!
予約していなかったものの無事にカウンターへ案内された。注文したのは

ビールとお通し(このお通しが旨い)、揚げ出し豆腐

メヒカリの唐揚げにあなご天ぷら!
一人で黙々と食べているのも何なので、お店の人とちょっと会話してみた。9年前に来たことがあることを告げ、その際の旅行記を見せると、女将さんが「もしかして太られましたか?」と!私の写真は当時の旅行記に載っていない。ということは覚えていた?
なんとなくおぼろげに覚えていたのだそうな。埼玉というキーワードで記憶の扉が開いたらしい。
そこからは六文銭という名前の由来(三途の川の渡し賃)やまん延防止に関する対応、三日前の地震など話題が尽きず、結局ビール4本をのみきってしまった。お会計は4790円!リーズナブルと言えるだろう!
ということで最後は楽しいお酒と美味しい料理で1日目が終了した。
ちなみにこの跡1時間仮眠してからF1開幕戦の予選をDAZNで見たのは言うまでもない。

3月20日(日):ホテル8:00発〜石巻市内散策〜大川小学校遺構〜南三陸災害庁舎遺構〜大谷海岸〜陸前高田遺構〜釜石駅〜大槌駅〜宮古駅〜田老遺構〜白石に宿泊

この日は朝7時半に起床! ホテルが朝食付きと言うことだったのだが、前述の通り元マンションなので食堂らしきものがない。フロントで受け取るように言われていたので行ってみると。
おひおひ!冷凍カツサンドかい!
まあまずくはないのだがここまであからさまに出されると・・・。次回から朝食なしプランにしよう。
腹ごしらえ・・・十分ではないが・・・を終えたところでチェックアウト。まずは石巻市内散策することとする。実は前回訪問時に石巻の街は散策していないのだ。よって駅まで歩いてみることとする。

実は前日の夜に六文銭まで歩く際、街のあちこちに石ノ森章太郎さんの漫画キャラ像があることを発見したのだ。駅まで行く間だけでこんな感じでたくさんある。全部で20体以上あるらしい。

駅の中や電車まで!まさに石森ワールド!
ということでせっかくだから石ノ森漫画館にも行ってみることとする。もちろん開館時間が9時なので中に入ることは出来ないが・・・。

この未来的な建物が石ノ森漫画館。旧北上川の中州にある。9年前に訪問した際には右の画像の先に津波で流出して自由の女神だけ残ったパチンコ店の残骸があった。この石ノ森漫画館も津波被害を受けたのだが、1年後に復旧したのだ。
隣には移築復元された石巻ハリストス正教会がある
周囲は公園としてまだ整備中で、11年経った今でも完成形にはなっていない。

ということで石巻市内散策は早々に切り上げ、最初の目的地である旧大川小学校遺構へ向かうこととする。

大川小学校までは片道20kmほどの道のり。途中北上川の河岸道路を走る。雄大で静かな北上川があの日は牙をむいた。右の画像の北上大橋は震災で向こう側2つのトラス橋が流され、9年前は仮復旧状態だった。
旧大川小学校隣には駐車場が出来ており、周囲は完全に整備されていた。
9年前はダンプカーが行き交い、このあたりも舗装されていない状態だった。もはや被災当時の面影は周囲にはない。

しかしこの遺構を見てしまうと鮮明に9年前がよみがえる。当時は左の画像の位置からしか見ることが出来なかったが、今は当時の校庭にも入ることが出来る。
大川小学校は

大川小学校はとてもモダンな円形校舎を持っており、その形がそのまま残っている。ただしその中身は完全に流されて何も残っていない。奇跡的にガラスが一部残っていたり、備品が倉庫の中に残っていたり、逆にそれが痛ましい。

渡り廊下が崩壊した体育館や卒業生の壁画もこのような形で残っている。見れば見るほど痛ましい。
ここで被災したのは78名。そのうち74名が亡くなった。そして今も残る4名が見つかっていない。

隣には9年前には存在しなかった資料館が建っている。この中には津波が来た15時37分で停止した時計や、津波前後でのこの地区の航空写真などが展示されている。地形がまるで変わってしまっていることもよくわかる。
ここはやはり定期的に慰霊に訪れるべきだろう。考えさせられる空間だ。
さて、続いて向かったのは南三陸町。
何もなければ素晴らしい景色の広がる、海岸沿いのワインディングを北上する。

途中、国道45号線はJR気仙沼線と並走する。気仙沼線は多くの鉄橋と線路が流されて鉄道での復旧を諦め、BRT(バス・ラピッド・トランジット)での復旧となった路線。途中で立派に作り直された路盤と鉄橋などがある。ここまで作ったならば線路で復旧して欲しいと思うのだが・・・・

南三陸町は防災庁舎で最後まで避難を呼びかけていた女性職員の悲話が残されている場所。9年前は何もなくなった広大な土地にぽつんと鉄骨だけ残された防災庁舎があった。しかし・・・

今は街全体がかさ上げされて、旧防災庁舎は巨大なすり鉢状の公園の中にある。もはやこの遺構からは海を見ることも出来ない。
この隣には南三陸三三商店街があり、地元の方や観光客で賑わっていた。でも、この遺構に足を向ける人はほとんどいなかった。
こうやって震災の傷跡も過去のものになって行くのだろう。

この時点で時刻は10時。実は9年前と同じく気仙沼で食事しようかと思っていたのだが、時間的に早そうなので陸前高田まで一気に行ってしまうこととする。再び国道45号線を北上。ちなみに45号線と並行して、復興道路として建設された三陸自動車道があるのだが、往路は極力利用せずに北上する。なんと言っても国道45号線の旧道を走らなければ震災の遺構を確認できないのだ。
陸前高田まで行く途中には大谷海岸がある
ここは9年前には気仙沼線のホームがまだ残っていて、道の海岸側は津波が来た当時のままだったのだが、現在は道の駅が整備されていて面影はない。なお、BRTもこの区間は国道45号線を走行するので、道の駅はJR気仙沼線大谷海岸駅としても機能している。

海側はもちろん砂浜もある海岸として整備されていて全く当時の面影はないが、南三陸側には今でも旧気仙沼線のトンネル跡と軌道跡が残っている。かなり低い位置にあるので、ここは全体がかさ上げされたと言うことか。
ちなみにこの道の駅でこんなもの発見

気仙沼向洋高校と登米総合産業高校のコラボ弁当!しかも大谷海岸限定販売!こりゃ買うしかないでしょう!780円でこの充実した内容!
もちろん1個購入して陸前高田で食べた。特に蠣のグラタンとサメ肉のメンチは絶品だった。

陸前高田には12時に到着!ここは元から道の駅高田松原だったところ。今でも同じ名前の道の駅になっている。ただし有名な千本松原はない。
ここには9年前と7年前に来ているのだが、来るたびに景色が変わっている。9年前は周囲2km四方くらい何もない状態だった。7年前には左の画像の真ん中にものすごい土砂運搬設備があって、防波堤を作るための大工事が行われていた。
それも今では撤去されて、新しい防波堤と広い公園が出来ている。
でもここに街はない
道の駅周辺は津波被害後の原っぱのままで、市街地は高台に移転した。よってBRTの陸前高田駅も新市街地の真ん中にある。もう人が住むことはないのかもしれない。

そしてこの場所で最も有名なのが奇跡の一本松。実は根元をコンクリートで固められてしまっており、実際には人工的に残されているのだが、あれだけあった松の中で一本だけ残っていたという根性が素晴らしい。右の画像は一本松の横にあるユースホステルの遺構。津波のすさまじさがわかる。
さて、この時点で実はこの日に宿泊する場所を決めていなかった。元々の計画では宮古あたりで15時になると読んでいたので、そこから引き返して帰ってくると0時までに川越に到着できると読んでたのだ。
でもちょっと思うところがあってこの日は白石に宿泊することとし、ここからネットで白石のホテルを予約。偶然駅前のパシフィックホテルが1室だけ空いているのを発見!すぐに予約を入れた。これで夜は白石の街に散在することが出来る!

ということでここからは15時に到着することを予定して宮古駅を目的地設定。一度45号線を北上する。
走り始めてすぐに見つけたのがこの遺構
陸前高田のかつての街の中心にあったと思われるこのマンションも2階から下はすべてがらんどうになっている。ここも被災遺構として残しているらしい。ここは前に訪問した際には気づかなかった。

大船渡の街を抜けるとちょっとタイムロスしそうだったので三陸自動車道をちょっと使ってパス。盛を超えたあたりから周囲は雪景色に。
実は前々日、三陸地方は大雪が降ったのだ。この地域は雪は降っても大雪になることは珍しい。もちろん路面は雪解けで濡れているものの残雪はない。残雪があったらノーマルタイヤでは走れないところだった。これも事前に何度もライブカメラ等で確認してきたので安心して走れた。いい時代になったものだ。

途中立ち寄ったのは釜石。今まで何度も通っているがスルーしていた街。鉄鋼の街らしく道の上を鉄鉱石の運搬コンベアが通されていたりする。

立ち寄ったのは釜石駅。JR釜石線の終点だが、震災前はJR山田線の終点でもあった。そして山田線はJRが設備をすべて復旧させた上で三陸鉄道へ譲渡され、三陸鉄道の路線として復旧することとなった。その結果北リアス線と南リアス線に分断されていた三陸鉄道は盛〜久慈間を晴れてリアス線として直通できるようになったのだ。
せっかくなので三陸鉄道目覚まし時計を買って行くこととした。お値段は1650円。汽笛で目覚ましなんていいじゃない?

次に訪問したのは大槌駅とその周辺。ここは9年前に来た際に全く何もないというところだった。住居の土台くらいしか残っていなかったが、現在は三陸鉄道も開通して大槌駅もこのようなモダンな駅舎が新築され、地域の交流の場になっている。
ただし、住居も増えつつあるがまだご覧のように駅向こうには何もない。近くのショッピングセンター駐車場は、元住居の敷地の堺が残ったまま使われていた。まだまだ復興とはほど遠い。

ちなみに左の画像の右に見えるのは新しい防波堤。右の画像は津波によって何もなくなった空き地。
国道45号線を走っていると新旧のこのような光景に何度となく出くわす。
特に右の画像のような何もないところは、かつて人が住んでいたのだと思うと悲壮感が漂う。

ということで予定通り15時に宮古駅に到着。ここもいつもスルーしてしまっていたので一度立ち寄ってみることとした。駅前には三陸鉄道本社と「さんてつや」というGoodsショップがある。

ちなみにこの日は小学校乗車無料デーということで、三陸鉄道全線に小学生は無料で乗れるという特別な日。地元に愛されている理由はこういうことだな。
せっかくなので駅の窓口で記念切符などがあったら欲しいと伝えると、なんと1年前に発売された震災復興10年の記念切符を出してきてくれた。お値段3650円とちょっと高いのだが、これは買って支援しなきゃ!
駅の構内には三陸鉄道の気動車が多数留置されていた。あまちゃんの列車ね
さて、ここから北へ12kmほどのところに田老というところがある。田老は三陸大津波で一度津波被害を受け、その教訓を生かした大防波堤があったものの、それを今回の大震災津波は乗り越えてしまったという場所。
9年前と6年前にも訪問しているが、今回も行ってみることとする。

まず向かったのは田老駅。実は田老の街は今回の津波でほぼ消失したため、高台に新しい市街地が出来たのだ。底に出来たのが昨年開業の新田老駅。従来の田老駅は秘境駅のようになってしまった。偶然にも15時29分に上下列車がここで行き交うと言うことで、雪の中を走る三陸鉄道を見ることが出来た。

続いて向かったのがたろう観光ホテル遺構。ここに来るのも3回目。9年前とホテルそのものはほとんど変わらないが、現在は予約すれば中を案内してくれるようになっている。冬至の津波の映像をそのまま公開しているのだそうだ。
右の画像は東日本大震災で地盤がこれだけ動いたという座標。看板のある場所は震災前には緑の丸の場所だったのだそうな。
市街地は移転してしまったが、漁協はかつての場所で再建されていた。
旧市街地は道の駅として整備されていて賑わっており、市街地が移転しても旧市街地が活用されているというのはいいことだ。

さて、時刻は16時前。ここから高速で一気に南下すると白石には19時過ぎには到着できる。ということで震災被災地巡りの旅はここで終了。帰路につくこととする。

三陸自動車道は片側1車線ながら交通量も少なくて流れも速いので快適な道。津波被害を考えてかなりの高台を走ることになるので、このような眺望。
ただ、国道45号線のような美しい海岸線を見ることや、リアス式海岸の特徴的な地形は全くわからない。
白石まで早く行くには釜石JCTから釜石道へ入るのがベストなのだが、釜石道や東北道は山間部の道路なのであまり面白くない。
しかも三陸道は利府まで無料区間なのでなんせ安い!ということで仙台までは三陸道で南下し、仙台南部道路で東北道へと入るルートを選択した。

気仙沼では朝ドラにも登場した気仙沼大橋も見えた。石巻へ着く頃にはすっかり暗くなった。
ということで白石には予定通り19時到着。ちなみにナビの到着予想時刻を30分縮めたのは言うまでもない。

白石駅前のパシフィックホテルにチェックインしてからは早速近くの居酒屋へ・・・と思いきや、なんとこの日は日曜日と言うこともあって閉店している店が多い。
やっと空いているのを見つけたのがこの和が家
運良くカウンターが6席あって、しかもお客さんはすべて半個室のグループ客しかいないという状況。

左はお通しのツナマヨ。そして注文したのはししゃも焼きとカレイの唐揚げ。このカレイの大きさを見て!
ツナマヨも旨かったしししゃもも旨かった!そしてなんと言ってもこのカレイの唐揚げは揚げ加減が最高!ひれも骨も食えちゃう!
これ、食った跡!ここまで食うやつはいないだろう!
これを見たお店の大将がとても喜んでくれた。そして話が弾み、震災の話やまん延防止の話で盛り上がった。
なんでも今回の震度6強はこのお店にとってはどうってことなかったらしい。ボトルが倒れるなどもなかったのだとか。近くで新幹線が脱線しているのに、お店の立地場所の地盤が良いのだとか。近くのお店では店内がぐちゃぐちゃになったところもあるらしい。
また、今回の震度6強は「来た!」とは思ったそうだが、11年前の震災とは比べものにならないくらい軽かったのだとか。そして11年前を経験しているので、地元の人にとっては大したことないのだそうな。
逆にコロナのことではかなり困っているそうな。宮城県はまん延防止が出なかったせいで補助金も出ない。しかもお客さんは自粛を呼びかけられていて来店しない。勘弁してくれと言っていた。
大将ともバイトの女の子とも意気投合してしまい、結局ビール4杯のんでしまった(前日と同じ!)でも会計は3300円!いやあ、いい店開拓した!
2日目は1日で600kmを走破したが、またまた美味しい料理と楽しいトークで締めくくることが出来た。
ちなみにこの日も1時間の仮眠後にF1開幕戦決勝を見たのは言うまでもない。

3月21日(月・祝):ホテル9:00発〜新幹線脱線事故現場〜東北道〜圏央道〜自宅到着13時

さて、前日かなり強行スケジュールだったので、この日はゆっくり8時起床。まず朝ドラを見てからコーヒーを一杯飲んで行動開始。
この日向かったのは白石蔵王駅近く。実は前週の地震で東北新幹線が脱線した現場があるのだ。もちろん復旧作業をしているが、17両中16両が脱線しているので、相当時間がかかりそう。その現場を目に焼き付けておくべく白石に宿泊したのだ。

白石蔵王駅のすぐ近くでは架線柱がこんなことに!他にもコンクリートの支柱が折れかかっていたりして相当な被害。震源からちょっと離れているが、何らかの共振が起こったとしか思えないような破壊状況。
これが脱線した新幹線
17両すべてがまだ現場にある。16両が脱線しているので、すべて線路に復帰させてから移動しなければならないそうだ。
これが傾いた車両
周囲にはJR東日本の関係者が沢山の車とトラックでやってきていた。
ここ以外にも多数の破損箇所があるらしく、白石から亘理までの国道4号線沿いには沢山のJR関係者が脇道を封鎖して作業を行っていた。

ということでこの旅の最後の目的も果たしたので一気に帰路につくこととする。亘理から東北道に乗ってあとはひたすら高速道路。川越には13時半到着。洗車と買い物をして自宅へは14時に到着した。

今回は震災10年目(実際には11年目)の慰霊旅であったが、現地を見て思ったのが「復興しているのは公共事業だけ」という気がする。実際の生活は原発事故値周辺では全く戻っていないし、津波被災地では居住している人そのものが増えていない。
10年という歳月があってもなかなか元には戻らないし、むしろ地元の人たちは「今を生きよう」という意志の強さの方が強そうだ。
改めて「定期的に訪問しよう」と心に誓ったのであった。三陸鉄道全線乗車もしなきゃ行けないし、まだまだ東北の旨いもの食べてないぞ〜。
ちなみに今回の旅で買ってきたお土産!立ち寄る場所すべてで何か買ってきた!


さて、今回の旅のお会計を集計してみるとする。
高速道路代:約\10000
ガソリン代:約\13000
石巻ホテル代:\6400
白石ホテル代:\4815
六文銭:\4790
和が家:\3300
寿司「正」:\1450
高校生弁当:\780
お土産代:約10000

総合計54535円!奄美大島よりもお金使ったが、もっと使うべきだったか?

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